全校朝集の話から⑩(虐殺と外国人の壁を乗り越えて)

全校朝集の話から⑩(虐殺と外国人の壁を乗り越えて)

 8月23日「人権文化をすすめる市民のつどい」(加西市主催)に参加し「人権講演会」を聴いてきました。読書のすすめ16で紹介した「19歳の小学生 学校へ行けてよかった」の著者、久郷(くごう)ポンナレットさんの講演です。

 ポンナレットさんはカンボジアのポル・ポト政権下の大量虐殺を生き抜き、1980年8月に難民として来日し、16歳から19歳まで神奈川県の小学校に通い読み書きを覚え、その後苦学して中学校、高校を卒業しています。19歳での小学校卒業は新聞記事になり、その記事を読んだ青年から励ましの手紙をもらい、文通が始まり、やがてその男性と結婚して一男一女に恵まれています。

 ポンナレットさんは、国立図書館の館長である父と、小学校の先生である母の間に、8人きょうだいの7番目に生まれました。1番上の姉は、国費の留学生として日本にいました。1975年ポンナレットさん10歳の時、ポル・ポト派が首都プノンペンを占領し、市民数百万人を徒歩で農村に移住させました。ポンナレットさん一家も農村で強制労働に従事させられました。国家再建のために知識人が出頭するよう呼びかけられ、それに応じた父は帰ってきませんでした。そして、2番目の姉は17歳で病死し、1番上の兄はどこかに連れて行かれそれっきりでした。食料不足と飢えの中で移住者は住民から差別され、母と3番目の姉と妹も労働と称して連れて行かれ帰ってきませんでした。カンボジアでは、ポル・ポト政権が崩壊する1979年までの間、国民の3分の1である170万人が虐殺されたと言われています。ポンナレットさんは、両親と兄弟4人を亡くしました。

 その後、1千万個の地雷原をくぐり抜け、2番目の兄、3番目の兄と共にタイの難民キャンプに逃れます。ポンナレットさんは言います。「戦争は人の命を奪い、人生を狂わせる。しかし、命さえあれば奇跡が起こる。」と。

 昨年、ポンナレットさんは、母と姉と妹をキリングフィールド(大量虐殺の刑場)に送った村長を訪ねています。(彼は自分の罪を認めていません。)ポンナレットさんは「平和の実現は、対話と和解と赦(ゆる)し以外に方法はない。」と言っています。

(8月24日の話から)

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