全校朝集の話から⑲(平和について考える③)

全校朝集の話から⑲(平和について考える③)

 今日は、「長崎の鐘」「この子を残して」の著書で有名な永井隆さんの話をします。朝ドラ「エール」にも永井さんをモデルにした人物が登場していました。

 永井さんは、長崎医科大学で学びますが、病気で右耳が不自由になり、内科医を諦め、放射線科の医師になります。やがて、結核のX線検診に従事しますが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、放射線に被曝して白血病になり、余命3年と診断されます。広島・長崎に原子爆弾が投下される2か月前のことです。      

 そして、1945年8月9日、爆心地から700メートルの長崎医科大学で被爆しました。奥さんは自宅で亡くなり、二人の子どもたちは、疎開して助かっています。永井さんは、負傷しながらも救援活動を続けた後、病床に伏し、寝たきりの生活の中で、二人の子を残して死んでいく心情や核兵器廃絶を願う著作を続けます。余命3年と診断されてから6年目の1951年5月、43歳で亡くなりました。

 永井さんが療養し、二人の子どもたちと生活したのは、浦上の人たちやカトリック教会によって建てられた二畳一間の小さな家です。永井さんは、この家を「己の如く隣人を愛せよ」という意味から「如己堂(にょこどう)」と名づけます。現在、如己堂は、長崎の「永井隆記念館」の前に建っています。

 著書 「この子を残して」の冒頭にこんな記述があります。              

 「うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、『ああ・・お父さんのにおい・・』と言った。この子を残して ー この世をやがて私は去らねばならぬのか!」   

 「戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?」

 永井さんの身体は全身やせ細っていますが、白血病細胞の増殖により、脾臓(ひぞう)が途方もなく大きくなり、お腹がふくれています。このお腹に外から圧力が加わると、脾臓がたちまち裂けて内出血を起こして死んでしまいます。そのため、子どもたちは永井さんに抱きつくことができません。甘えたい思いをおさえ、少し離れて会話をします。娘のカヤノさんはお父さんが眠っていると思い、そっとほほをくっつけていたのです。永井さんは、一日でも、一時間でも長生きして、二人の子が孤児となるのを先に延ばそうとするのです。

 3年生は修学旅行で如己堂を見学します。永井さんの生き方に触れ、そこで見たもの、感じたことを大切にしてほしいと思います。               

(11月9日の話から)

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